昭和46年09月30日 朝の御理解
御理解 第58節
「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」
信心を頂いておりましても、様々な事に出会います。例えばここにありますように、盗人じゃ乞食じゃと、言う様な事を言われる場合ですら、無いとは言えません。まぁいうなら、極端な悪口を言われると言う事でしょうか。本当に根も葉もないない事をはやしたてられると言う様な事もあります。けれども神様が見ておいでだから、神様が聞いておって下さるのだから。と言う事が段々信じられるようになって来る。
その信じられるようになってくる、その信ずる心がいよいよ強い間違いのない。絶対なものになって行く事が、おかげを受ける、徳を受ける土台になるのですから。神は信ずる者を信ずると仰る。半身半疑じゃおかげも半分。疑うてかかればおかげは全部嘘になる。というようにです、私共は全然神様を知らない時代から、神様を分からせてもらう、知らしてもらう、そして信じさせてもらえれる、その過程ね。
どの様な場合であっても、絶対とこう信じられる。と言う所まで高められて行く事が信心だと。信心とは信ずる心とある。ですからその信ずる心が、どう言う事になるかというと、神は信ずる者を信ずるとこう仰るから。神様から信じられると言う事は、そのままお徳を受けると言う事ですからね。御神徳というのは神様のご信用じゃと、久留米の初代は仰っておられます。神様をね信じて疑わない。絶対心ですいわゆるね絶対心。
だから絶対心という事を、まぁ合楽風に頂きますと、どういう風になるかというと、全ての事が神愛。全てが御事柄と言う事になるのです。例えば泥棒と言われ、乞食じゃと言われるような、いわゆる場合であってもそれは即、よくよく分からせてもらうと、神愛である。又は頂く方の側としては、それをだから御事柄として頂くのである。わけなんですね。そういう頂き方が絶対心なのです。
又絶対心に一歩一歩近付いておる信心者の姿でもあります。最後にしっかり信心の帯をせよ、というのも、しっかり信心の帯をせよというこれでも、これは一段一段信心が神様へ向けられる心がね、心、絶対心になって行く、いうならば姿です。神様を信じて疑わないという、それが信心の帯です。それがしっかり出来る。しっかり神様を信ずる事が出来ると言う事です。そこで私共が分からせて頂かなければならないことがです、例えば「這えば立て、立てば歩めの親心」と申しますね。
「這えば立て、立てば歩めの親心」。子供が這うようになると、さぁ立たせようとする、さぁたっちたっちしてごらんというて、こう手を持って立たせる。それが一足二足でも歩くようになったら、はぁもう一足、もう一足というてこう歩く、その子供の姿に親は余念がない。これが親心。神様とても同じ事。少し信心が分かって来たと。本当に信心が分かって来たかと。神様がおぼしめされるだけではなくてです、その育って行く姿を、実際この目で見たいと親が思うように、神様もそれを感じられる。
そこでね泥棒と言わせたり、乞食じゃといわせたり、いわば極端な悪口をいわせてからでも、果たして、これを御事柄として受けていけるだろうか。これを神愛として受ける事が出来るだろうかと。信心がちった出来てから、有難か有難かちいうけん、ほんなことありがたつかと思うてから、ちょっとまぁ突いたり引いたりされるような事になると、もう神様も、とこういう風なこと。
親先生があげなこと言うたからとかと。実にまぁたわい無いこと、神様の目から御覧になったら。それを向きになって、腹を立てたり信心を緩めたりする。惜しいことでしょう。そこんところがです、いわゆる親心ね、分かっておると「這えば立て、立てば歩めの親心」である、その親心の表れが、そう言う事になってくるんだと悟らせて頂いたら、漸く立ちなろうたのにもう歩けという。
漸一足三足歩く、歩くようになったら、もうなんぼでも、そのなんて(おにばぶじんちょこになる?)と言う様な言葉がありますね。ここには本当に有り難いことが分かって来た。ご縁のありがたさも分かって来た。ちょっと御用を言い付けると、もういやな顔をする。私まだ福岡で修行中に、ある教会にお話しに参りました。そしてそこの奥さんが、本当に、神様に相済まん失敗いたしましたとこういう。そちらの奥さんはなかなか、お裁縫が上手です。
親教会にお礼に出られると、何か御用でもありましたら、させて下さいとこう、いうまぁ言われた。そんなら、家のあの、洗濯物でも持って行って下さいとか、また洗濯物でもぬうて下さいとかと。と言うて出された。それまではありがたかった。ところが次に参った時には、こういう反物のお供えが来たけん、あの○○さん、あんこれ一つぬうて下さいちゅうてから、また出さっしゃった。
もうその時には、いやな気持ちがして、まぁ頂いて帰ることは帰ったもんの、いわゆる喜びいっぱいとか、真心で御用する事が出来なかった。そして、後で気付かせて頂いたことですけれども、本当に御用を頂きたいというから、神様がいうなら、矢継ぎ早に御用を出しなさった。半分ぐらいまでは有り難かった。後の半分なもう本当( ? )んなるごと思うちから、なんでん用事をしてやるかと思うてから、というて、そういう心で受けたとこう。
そしてある事情のおかげを落としたことをです、こういう心がおかげを落したもとじゃろうというて、私も話に行った時に、自分の体験発表というそのことを話された。言葉がありましたが。そういう時が大事ですわね。それこそ、這えば立てと言われる、立てば歩めである。そこに私は信心をいよいよ進めて行くと言う事は、いよいよ神様の願ってござる、真の心。神様も氏子を信じたい。けれども相手に一心がなからなければ、おかげにならんとこう。
氏子に真なければ、とこう仰る。そこで神様としても、信じてもらいたい。より信じてもらいたい。いわゆるより確信。絶対心を持ってもらいたいという、神様の願いが様々な角度から、様々に現われてくる。それはその人その人によって変わってくる。信心しとりゃただ、なでさするばっかりのような事では決してないと言う事ね、それは目の中に入れても痛くないほどに、可愛いというのが親心ではあります。かというて、そんなに、何時も、可愛い子ちゃん的な、その可愛い可愛いではないでしょう。
親なればこそ、しかりもする。怒りもする、もうこのくらいなことが出来るのが当たり前。このくらいなことばしなければと、いうなら要求もする。だから、その辺のところが分からなければ信心の味わいというものは、私は本当には分からない。甘い物だけが有り難いのではない。苦い物もまた有り難い、いやその苦い物こそ、本当は大事にしなければと、苦い味を分からせてもらうことが、私はおかげである。そこには、甘い物も苦い物もね、有り難いとして受けられることになる。
昨日一昨日でしたか。あの合楽食堂の中村さんが、ここでお届をされます。もう日々あの人のお届を聞かせてもらいよると、有難か、有難かねという、それはならおかげが、その自分の思うようになると言う事じゃない。思うようにならんこともおかげとして、あのお礼を言うておられるんですね。そこが信心ちゃありがたかね、というわけになるのです。ほんにありがたかね、そりゃそげなおかげ頂いたねとう言う事じゃないと。ある意味でたたかれるようなこともあるね、けれども有り難いという事。
先日などは洗い物させていただいとりました、なんかね、食堂ですから、茶碗かなんかを洗いよんなさったでしょう。洗いながらね、まぁどうふうしてこげん有り難い事になってきたじゃろうかと。またどうしてこういう尊い有り難い神様が、本当自分ところの目の鼻先に、移って来て頂いたじゃろうかと思うたら。ありがとうして、有難うして、茶碗洗うとを忘れとったち、いうぐらいに有り難いに、思いをふくらせて頂いたというてお届しております。
合楽の中でも本当に信心を頂くという人は、なら合楽の部落でもそう何人もおりません。本当にこういう尊いこういう有り難い神様が、本当に目の鼻先に移って来て頂いたという事はただ事じゃないと思いますと。それを思いよったら、それこそ茶碗を洗う、その洗うとまで忘れておったと。ぼんやりして、ただ有り難いに浸っておったというわけなんです。それ聞かせて頂いて、本当に信心ちゃ尊いことだなぁと思います。
信心がね、ただおかげを受けて有り難いだけじゃなくて、その、尊いものになってこなければならん。例えば中村さんに言うならば、この頃中村さんが言うことが変わったと。周囲の人が、お客さんが言われる。そうなんです。それをね、信心による物の見方が、考え方が、変わって来たからなのである。例えば泥棒といわれりゃ腹が立つ。乞食じゃといやどうして私が、何時もろうてさろうたのとこれは、そういうのが当たり前。けれども神様がご承知じゃから。そう思える自分が有り難い。
ここには一ついうとかにゃと、例えば昔ならそれこそ顔真っ赤にして、言い訳したことであろうけれども、それを言わんですむようになっておる自分が有り難い。この頃からも、色んな、やっぱ人間関係、親戚、との問題。いわゆる人間関係ですね。信心しとってもやっぱ様々な事があるのである。けれどもね、ただ神様を信ずるというか、神様にお願いをする、もうその一念だけしかない。だけではない。相手の人のことが、やはりちゃんとお届をして、お願いをしなければおられないほどしの事。
もうあげな人は知らん。いくら親戚でも構わんと思うような、という所でしょうけれども、その人も助からなければならない。とお取次ぎを頂いてお願いをされるというような、いわゆる日常生活がそのように変わってきた。いうなら信心の帯がしっかり、段々出来て来たことになります。本当に受けにくいこともある。まぁ瞬間どうしてと思うようなこともある。けれども、直ぐその後に私共が分からなければならない、思わせて頂かなければならないことはですね親心です。
這えば立てであり、立てば歩めの親心が、このようにして現われておると思うたら勇気が出る。長年信心を頂いておるから、信心の帯が出来ておるというのではない。信心頂いておっても信心のない者と同じような考え方しか出来んなら、そりゃ信心の帯が出来ていないのである。何かに直面する時。自分の信心の程度を知るというのは、自分の信心の帯というのが、どれ、どのくらいに出来ておるかという事。
57節に「金の杖をつけば曲がる。竹や木は折れる。神を杖につけば楽じゃ」と。私共が、信心の帯をしっかりすると言う事は、いよいよ神を杖につけば楽じゃという、神を杖につくという事である。そして、楽じゃというところまで、おかげを頂かせてもらう。楽じゃと言えるところまで、神様を信じれれる。それに、神を杖についておるようであり、信心はもう長年させて頂いておるから、いかにも神様一本、神様を杖についておるようにあるけれども。
金の杖をついたり、木や竹をついておるところにです、それが曲がったり折れたりしておる、そこに楽ではない事になっておるのです。神を杖につくという事と、信心の帯をしっかりせよという事は、同じ事だとこう思いますね。しっかり信心の帯が出来たら、それは神の杖をついておるようなもの。きついけれども、やはり杖をついておるから、杖にすがっておかげを受けて行く事が出来る。
私共が、神様をどの程度に信じておるかと。私共が本当に神様を杖についておるかどうかと。まぁだね、人を物を、またお金を。昨日教祖生誕式が、まぁあのような雰囲気の中に、賑やかな生誕式でした。お祭りが終わり、式が終わって、お年寄りの方達の会食、そして演芸などがございました。その初めの浪花節さん、男の浪花節さんがね、申しておりましたが。まくらのところでいや、かたっておりましたね。もうこの世は一事が万事に金の世の中だというようなね。
夕べご直会の時でした。私の横へ座っとりましたが、先生、先生の今日はお説を受けたまわっておりましたら、この世は金の世だけじゃいけん事が分かりましたというて、マイクで聞いとったんです私が話したことを。もう一事が万事が金の世の中。金でかたつく。それこそ地獄のさたも金次第というくらい。けれども極楽のさたは金次第じゃないという事が分かったと言うのである、なるほど、地獄のさたは金次第かもしれん。けれども本当に人間が助かるとか。
又は自分自身が楽である。いわゆる極楽というのは、金次第じゃいかん。そうでしょうが。それには、なるほど「障子一重がままならぬ人の身」である、いわゆる昨日の朝の御理解。「障子一重がままならぬ人の身」であるから人も大事金も大事。いわゆるだけれどもね、それではいよいよん時には曲がったり、折れたりするという事。本当におかげを頂きたい。本当に極楽に行きたい。いわゆる極楽に行きたい、いや極楽の味わいを日々味わいたいと思うならです、金じゃない物じゃない。
神を杖につかなければ。いよいよ神様を信じて疑わんですむ、絶対心の心が生まれてこなければ、極楽ではない事が分かる。神様が願いとされ、信心してどうぞおかげを受けてくれというのは、それのこと。神様と氏子が信じ、信じられ。あいよかけよでこの、この世がまたは日々が働き、あいの中から、有難いものが生まれてくる。そういう生活を神様は願っておられる。そういう生活を私共は極楽だとこう思う。
なるほど、玉水の先生が、一切合切をありがたく受ければ、この世、金光教は極楽を、と言う様な事を仰っておられますようにです、一切合切の中には、泥棒じゃと言われる様な事もある。盗人いや乞食じゃと言われるようなこともある。けれどもさぁ一切合切をありがたく受ければですからね。そこで自分としても、あぁいう悪口はいわれる覚えはない、身にえはないと、だけいわずに。やはり自分自身も本気で自分を見極めて行かなければならん。同時に自分が信心の成就をいよいよ願わなければならん。
ここまで合楽がおかげを頂いてまいりますにも、やっぱり20年間の歩みの中には様々な事があった。様々なことを言われても来た。そこで私共の信心が本当に成就して行く事を、ただ願い続けて今日おかげを頂いて来た。「咲くまでは、草と呼ばれる野菊かな」である。初めて花をそこにつけ、花が咲いた時に、はぁなるほど、あれは菊の花であったなと分かるのである。それまでは、他の雑草と一緒。野菊が他の草と一緒であるように。ありゃ草じゃと、ありゃざっそう。
雑草じゃといわれるような、自分の心の中に有り難い、それこそ菊の花が心の中に、何時も感じられるほどしの、ありがたさを頂いておっても、それが開花しなければ、形に表れてこなければ、それを菊、いうなら菊といわないと。その間が、いわゆる雑草じゃといわれる。いわゆる盗人じゃと言われたり、乞食じゃといわれたり、きょくたんないわゆる悪口を言われたり、非難をされたり。それをねどうしてそういうか、私が非難されるところが何処にあるか、というのではなくて、自分自身の心の上にも。
反省に反省を重ねて行くと同時に。それを神愛と感じる。それを「這えば立て、立てば歩めの親心」であることを分からせてもらう。それには中村さんのその例じゃないけども、どうしてこういう有り難いお教会にご縁を頂いておったじゃろうかと思える心。なんと有り難いことであろうかと。例えば合楽にご縁を頂いておったことが、真に有り難いと思う心が、和賀心とまで、この頃の御理解の中に頂きましたね。本当に有り難いと思うたら、もう他のことはもう問題ではなくなってくる。
どんな場合であっても。ただ有り難い、こういう時もし信心がなかったら自分は、どう言う事を言うたりしたりするだろうか、それがただ有り難いとだけ受けれると言う事は、なんと有り難いことであろうかと言う内容になってくるんじゃないでしょうかね。信心の帯をはじめからしっかりまきつける事も、結ぶことも出来ません。けれども、そういう信心の一つの過程というものをです、辿らせて頂きながら神愛を悟り、御事柄として受けられる。そういう生き方の中にです。
なるほど神様が見ておいで、神様がご承知の世界に生き抜くと言う事は、そのまま神を杖につくことであるから、腹立てんですむ、情けないと思わんですむ、いわゆる心が楽じゃという事になる。その楽な心をいよいよ合楽にしていかなければいけん。自分だけの楽ではない、その相手の人も楽であるというところまで信心が進められなければいけん。勿論その、合楽というのは、いわゆる神も助かり氏子も立ち行きと言う様な、あいよかけよで立ち行く楽になっていかなければならんことは勿論。
どうぞ。